無敵の男ひろゆき氏の生き様を惜しみなく披露する 「無敵の思考」

この本は,ひろゆき氏の生き様を説明する本である。お金に関する話や人づきあいに関する話などに関するひろゆき氏の生き様がテンポ良く語られている。

https://www.instagram.com/p/BX65BDfF75v/

生活のランニングコストが自由を奪う

著者は,生活のランニングコストを上げないよう警告する。生活のランニングコストを上げてしまうと,自由が奪われるからだ。

生活を続けるお金,つまりランニングコストが高いと,そもそも,「仕事を辞める」という選択肢がなくなってしまいます。すると,どんなにイヤなことがあっても,「言われたことはちゃんとやらなきゃいけない」というマインドセットになります。
これが別に,生活レベルが低ければ,「じゃあ辞めるわ」と言って簡単に会社を辞めて,他の仕事を始めたりできます。
でも,社会人になってランニングコストを必要以上に上げてしまった結果,楽しむためではなく,その上がったランニングコストを維持するために時間を使い続ける人が多いのです。(7頁)

自分を顧みても,周りを見ても,確かにそのとおりだ。

しかも,一度上げてしまった生活水準を下げるのは非常に難しい。
収入が激減しているのに生活レベルを下げることができず,破産してしまう人すら多くいる。
家賃5万円の部屋から家賃10万円の部屋に引っ越すのは楽しいが,家賃10万円の部屋から家賃5万円の部屋に引っ越すのは心理的に非常に難しい。
恐ろしいことだ。
こんなことになるくらいなら,著者が言うように,収入が上がっても家賃5万円の部屋に住み続け,残りの5万円は別のことに使った方がいい。

著者は,経験から,最低月5万円あれば生きていけると感得しているという。
月5万円なら大学生のアルバイト程度でも何とかなる。
だから,嫌な仕事を続ける必要はないのだ。

これは,考え方の問題である。
そのように考えれば,そのような状態になる,という話だ。
今すぐそのように考えるだけでよいのだ。

高いものはダメージもでかい

著者は,高級時計を買わない理由について,このように言う。

それに,200万円の時計を腕に巻くことの優越感みたいなものはあるかもしれないのですが,万が一,落としたり傷つけたりしてしまったら,そのダメージはかなり大きいと思います。(175頁)

これもまたそのとおりだ。

先日,旅行先で原付に乗っていた際に転んで腕時計にキズが付いてしまった。高いものではないので全く心理的なダメージはなかったが,これが自動車と同じくらいの値段がするような腕時計だったら,心理的ダメージは相当大きかったに違いない。
自分の腕時計はいつも小さなキズがあるし,携帯電話もいつもキズが付いてしまう。自動車もそうだ。何でもそうだ。キズを付けないように生活するなんてできない。
高い腕時計を買っても自分なら必ず傷を付けたり壊したりしてしまう。わざわざ自分の心理的ダメージを大きくするために高いお金を払うのはナンセンスだ。

迷うエネルギーが無駄

著者は,なにごとも情報を入手して選択をするのはかなりのエネルギーを要するため,選択肢を減らすよう努めているという。それによってストレスの少ない生活ができるというのだ。

たとえば,食事に行くとメニューを見て食べるものを決めるわけですが,それだって面倒なことです。なので僕は,自分で払うときは一番安い料理を見つけて,それでよさそうだったらそれを,それがイヤだったら2番目に安いものを探すという感じで,機械的に決めています。つまり,選択肢を無意識に減らす生活をしています。(24頁)

この発想はなかった。
値段が安い順に検討するというのが面白いし,「それでよさそうだったら」それにする,というのも面白い。

迷うエネルギーが無駄なのは確かだ。
例えば,自分も,出張の際の航空券やホテルを選び始めると,あっという間に時間が経ってしまう。
なので,東京出張の場合はこの航空会社の便でこのホテルと決めてしまっている。
定番やルールを決めてしまうというのは,とても良いことだ。

人づきあい

意外な人づきあい観

自由で個性の強い著者だが,意外にも,人づきあいに関してはその自由や個性を抑えているようだ。
先輩の言うことにはとりあえず従う,体育会系の人には体育会系のノリで体育会系のルールに従って接する,感情的な人には異論を言わず逆らわないようにする,など,経験から得た処世術のようなものが多く述べられている。色々と嫌な経験をしたことが窺われる。

また,女性と仕事をする際には一定の距離を置くという。

性コミュニティを敵に回してうまくいった人を,僕は見たことがありません。(51頁)

確かにそのとおりかも知れない。

「先生」という呼び方

また,意外にも,「先生」との呼び方に関して,著者は自分と同じ考えであった。

僕ははじめ,弁護士に「先生」を付けるのが嫌でした。別に,対等な立場と思っていましたからね。
ただ,年上の言うことを聞くのと同じで,実は「先生」を付けて呼ぶことには,何のデメリットもないと気づいたんです。しかも,それで相手が気をよくします。
けれど,もし「先生」を付けないと,中には気を悪くする人に出くわすかもしれません。「えらい」と言われているカテゴリーの人には,そういう地雷が発生する確率が高かったりします。
それがどの人かわかりませんから,「じゃあ全員,とりあえず先生って呼んどけばいい」というのが無敵の状態なわけです。(46頁)

弁護士とか,医者とか,先生と呼ばれる人たちの中には,たしかに,超個性的な人が多く,地雷を踏む確率が高い。
弁護士に「先生」と付けることに関して持論のある人は多いが,尊敬しているかとか立場が上なのかとかそういうことは自分としてはどうでも良いけれども,もし「先生」と付けずに「さん」と呼んで,怒られたり,気分を害されたり,失礼だと思われたりしたら,損だ。
著者の言うとおり,誰でもとりあえず先生と呼んでおけば無敵なのだ。

見たいものを見て,考えたいことを考える

見たいものを見たいように見る

著者は,見たいものを見たいように見て,考えたいことを考えたいように考えているようだ。
見たいものを見たいように見るためには,視力は良くない方がいいという。

目が悪いことでトクをすることはまだまだあります。
たまにメガネをかけると,それまでは「キレイだ」と思っていた女性が,そんなにキレイじゃないという悲しい現実に気づくことがあります。
現実がわかったほうがいいという人もいるかもしれませんが,自分のまわりの人が美人だらけだと思い込んでいたほうが,絶対に人生は楽しいはずです。(98頁)

考えたいことを考えたいように考える

また,考えたいことを考えたいように考えるためには,考えたくないことを忘れることが重要だ。
著者は記憶力が悪いというが,その方がストレスが少ないという。

僕が3日で忘れてしまうことを,1年も覚え続ける人は,それだけで100倍以上のストレスを受けています。(91頁)

禅の発想と同じだ。嫌なことを反芻して何度も再体験する必要は無い。
忘れる能力は,楽に生きるために重要なスキルなのだ。

イヤなものも好きになればイヤなものが減る

イヤなものについても,好きになればイヤなものじゃなくなるじゃないか,という発想で,好きになろうと試みる。

そういうわけで,「イヤなものが好きになる」という自己暗示が,たまに成功することがあります。 だから,すごくイヤなことでも積極的にやってみるとイヤじゃなくなって幸せに生きられるというわけです。(78頁)

素晴らしいポリシーだ。

衝撃の結末

このようにして本書では著者の生き様が語られているわけだが,巻末の「おわりに」で,面白い一文に出会うことができる。

とはいえ,この本は編集者の種岡健さんに,過去に書いたことや話したことをまとめていただいただけなので,ちゃんと自分で書いたのは,「おわりに」だけなんですけどね。(207頁)

これも,このような「おわりに」を書くのも,著者の生き様なのだ。

生き様

このように,この本は,全体を通じて著者の生き様を語っている。 自分の生き様に迷っている人にお勧めである。

 

 

作家が体験した裁判所あるある・弁護士あるあるのオンパレード 「臆病者のための裁判入門」

本書は、作家の橘玲氏が日本の一般的な少額民事裁判を体験したレポートである。
その内容は、裁判所あるある・弁護士あるあるのオンパレードである。

https://www.instagram.com/p/BR17cScFR5C/

事件の内容

著者は、知人のオーストラリア人であるトムの裁判を手助けする。
事案の概要は以下のようなものであった。

トムは、知人の新井さんのバイクを借りて運転していたところ、自動車に衝突された。
トムにケガはなく、損害は携帯品の破損など物損のみで、損害額は15万円であった。

新井さんの契約する損保会社がA損保。事故の相手方の保険会社はT海上。
A損保とT海上で示談交渉が行われていたが、なかなか話が進まない。
そこで、著者が、トムに代わって、A損保に事情を聞いてみる。

A損保の担当者である栗本の説明によると、「T海上とは過失割合8:2で合意しているが、相手方本人が非を認めず、揉めている」とのことであった。
しかし、著者が不審に思って、相手方保険会社であるT海上に直接聞いてみると、過失割合で揉めてなどおらず、事故直後に自損自弁で終了したという。

A損保の担当者である栗本がトムに嘘の説明をしていたのだ。

トムと著者は、栗本が嘘をついていたのは明らかにおかしいと主張して、慰謝料の支払を求める。
しかし、A損保担当者の栗本は、非を認めない。
栗本が非を認めないので、A損保も対応しない。
A損保は、トムに対して損害額15万円の8割である12万円はの保険金は払うが、その他には何も払えないという。

一見、理不尽に見えるA損保の対応にも理由があった。あらゆる紛争を法に基づいて解決しようとする法化社会では、ルール化されていないお金を払うには司法の判断が必要なのだ。(41頁)

ここで著者はひらめくのだ。

だがここで、私にはひとつの疑問が生まれた。世の中には私たちと同じように、少額だけれど理不尽なトラブルを抱えて困っているひとがたくさんいるはずだ。法化社会では地域のボスやヤクザに頼んで紛争を解決することはできず、「正義」の実現は司法に頼るしかない。だったら、それはどのようにして可能なのだろうか。
私のアイデアは、たんなる一市民がこの問題に対処しようとしたらどうなるのか試してみる、というものだった。(43頁)

「弁護士あるある」「裁判所あるある」のオンパレード

その後の経緯として書かれている内容は、「弁護士あるある」「裁判所あるある」のオンパレードだ。しかし、この「あるある」が利用者側の目線から冷静に記述されているものを見ることはほとんどない。
その意味でこの本は貴重な本である。

著者らは、まず、弁護士会の法律相談センターに行く。
不法行為による損害賠償請求という構成が可能だろうとのアドバイスを受ける。

もっとも、訴外で請求しても払ってくることはないので、その後の手続についてアドバイスを受けるため、法テラスの無料法律相談を受ける。
そこで、調停なら簡単にできるから調停がいいよとアドバイスを受ける。

著者らは、アドバイスに従って、東京簡裁に民事調停を申し立てる。
1回目の調停期日で、調停委員が、双方に対し、10~20万円の解決金による解決の検討を求める。
しかし、相手方は応じられないということで、2回目の調停期日で不調に終わる。

その後、訴訟を提起するために再び法テラスの相談を受ける。
その際、弁護士から、「請求金額が低すぎて弁護士は受けられない、どうしてもやりたいなら自分でやれば」と言われる。

少額訴訟が原則1回で審理を終えると知り、簡裁に少額訴訟の訴状を持って行く。
しかし、受付で、「これは少額訴訟には適さないので通常訴訟で提起してください」と言われる。

そこで、簡裁に通常訴訟の訴状を持って行く。
すると、受付で、「これは簡裁では扱えないので地裁に提訴しろ」と言われる。
事物管轄は満たしているが、内容が難しいから簡裁では扱えないというのだ。

そこで、地裁に訴状を出す。
すると、書記官から連絡があり、1週間後に裁判所に呼び出される。
そして、書記官から、「弁護士をつけろ」と言われる。
著者が、「弁護士から、引き受ける弁護士なんかいないと言われた」と説明する。
すると、裁判官と話してくださいと言われ、部長が登場する。
部長は、「簡裁への移送の上申を付けて訴状を再提出しろ」と言う。
著者が言われたとおりにすると、事件は簡裁に移送される。

ところが、簡裁での第1回目の口頭弁論期日に出頭すると、裁判官から、「本件は地裁に移送します」と言われる。
難しい事件だからどうしても簡裁では扱えないというのだ。

簡裁判事の現実を知った著者の感想はこうだ。

だが事実、簡裁判事は司法の世界の“二級市民”だった。司法試験を通っていない彼らは、裁判の実務には詳しいが、法律の条文を解釈して判決を下すことに慣れていない。「こんな複雑な事件は無理なんですよ」という自虐的な発言は、彼らにすれば当然のことだったのだ。(87頁)

そうして地裁に移送されて、最初とは別の民事部に配属になる。
すると、また書記官から呼び出され、「なぜ弁護士をつけないのか」と言われる。
同じ説明をし、何とか地裁で手続を進めてもらう。

第1回目の期日に出頭したところ、裁判官の主導で和解協議が行われる。
しかし、A損保は支払に応じないので、判決に至る。

敗訴判決だった。

著者は、敗訴はやむを得ないと理解しつつ、理由に納得できないという。
判決では、争点となっていなかった部分で不意打ちの事実認定をくらっていたのだ。
知人の弁護士に相談し、裁判所の判決の現実を知る。

「なるほど、ここで揚げ足をとられたんですね」
彼によると、判決文というのは最初に結論があって、それに合わせてつじつまを合わせていくものだという。裁判所は、つねに揚げ足をとる機会を狙っている。その隙を見せないように論証することが、弁護士の腕の見せどころなのだ。
そういわれてみれば、たしかにこの判決文はとてもよく理解できる。しかし、これでほんとうにいいのか。(109頁)

だが私たちはあまりにも素人だったので、「法律の世界では、相手が嘘をつくことを前提として行動しなくてはならない」ということにまったく気がつかなかった。(115頁)

著者は、今度は弁護士に依頼して控訴する。
そして、ここにきてついに、高裁の裁判官が、ようやく、まともなことを言うのだ。

トムの損害を賠償する義務があるのは事故の相手方なのだから、12万円を請求する相手方はA損保ではなく、T海上でしょ。だったら、A損保の担当者が何を言おうが、関係ないでしょ。

最初からあらぬ方向に進んで時間を無駄にしていたのだ。著者の目的からすれば著者にとっては無駄ではないかもしれないが。
しかし、最初の段階で専門家にきちんと頼んでよく考えてもらうことがどれだけ大事か、身に染みる。
間違った方向に苦労して進んでも、間違った場所にたどり着くだけなのだ。

高裁の裁判官は、常識力を発揮して、和解をまとめる。
A損保はそもそもトムから請求を受ける立場にはないものの、被保険者であるトムに対して不正確な説明をした責任もあるし、トムがT海上に対する請求をこれからするにしても消滅時効期間経過前に間に合うかどうか分からず、トムに損害が発生する可能性もある。そこで、A損保がトムに一定の金額を払うとの和解案を提示する。

そうして、A損保がトムに対して20万円を支払うとの和解が成立するのだ。

本書で、著者は、弁護士や裁判所をまったく責めていない。しかし、この経緯に出てくる関係した弁護士、裁判官、書記官、みんなに反省すべき点がありそうだ。

素人が法律を理解することがいかに難しいか

このような民事裁判の経験を通じた著者の考察は鋭い。

民事訴訟を扱う裁判官の大きな負担になっているのが、日本に特有の本人訴訟の多さであることは間違いない。これについては裁判所と弁護士の認識は共通で、法律的な主張を構成できないばかりか、証拠の整理すら満足にできない素人が民事裁判を混乱に陥れていると考えている。(216頁)

著者は明らかにインテリだが、そんな著者でも、著書にこんなことを書いてしまう。

トムの事故の相手方の車はマセラティで、損害額は250万円だったそうだ。
過失割合が8:2なので、トムの負担は2割の50万円となる。
だから、自損自弁にした方がトムにとっても得だった可能性がある。
しかし、トム自身がこの2割を自己負担しなくてもいいなら、話は違ってくる。

保険金を請求して相手方の損害を負担することになれば、トムはマセラティのドライバーに50万円(修理代金250万円の2割)を払わなければならない。だがこれは搭乗者傷害保険でカバーされるから、実際にはA損保が肩代わりしてくれる(トムの負担にはならない)。(99頁)

ここでいう「搭乗者傷害保険」は、どう考えても「搭乗者傷害保険」ではなく「対物賠償保険」のことだ。
著者ほどのレベルの人でも、こう書いたまま、訂正されずに出版されてしまうのだ。
新聞でもTVでも、法律を理解していない報道というのは多い。
法律というのは、なぜか分からないが、扱うのに一定の訓練が必要で、知的レベルが高ければ素人でも正確に理解できるという種類のものではないのだ。

紛争は当事者同士では解決できない

著者の考察は本当に鋭い。
特に、以下の言葉は真実を現していると思う。

紛争は当事者同士では解決できない

紛争が起きたときに、これまでは共同体による調整で解決していたことも多かったが、これが困難になった結果、もはや法による解決しか方法がなくなっているという。
法による解決の方が解決しやすいかというと、そんなことはない。

だがコンプライアンス化は無条件に素晴らしいものではなく、「共同体」から「法」へ問題解決のルールが変わったからといってトラブルが解決しやすくなったわけではない。(148頁)

そうして、本書では、法的解決の方法として、民事調停、訴訟、各種ADRなどが紹介される。

訴訟件数が増えないのは執行手続の欠陥があるから

著者は、本当に鋭い。
一般にはあまり知られていない問題点をいとも簡単に突き止める。

法テラスや少額訴訟などで司法サービスへのアクセスを改善しても訴訟件数が増えないのは、強制執行の欠陥などで判決に実効性がないことが見透かされているからだ。(214頁)

何億円の敗訴判決をくらっても、自己の財産が特定されなければ何の不都合もない。
絶対に何とかしなければならない課題である。

相談者からみた法律相談

法律相談に関する著者の感想は大変貴重だ。
一定の知的レベルにある人が、冷静な視点から、相談者の側から見た法律相談について記載しているものは、なかなか見当たらない。

ここで、利用者の立場から法律相談についての感想を述べておきたい。
弁護士ウシジマくんのように、法律家は紛争をコストパフォーマンス(費用対効果)で考えるよう訓練されている。3万円の貸金を取り立てるのに10万円の着手金を払ったのでは割に合わないから、これは当然のことだ。
しかしこのことを、相談者はおうおうにして「泣き寝入りしろ」といわれたと感じる。これが法律相談に対する不満にもつながっているのだろうが、その背景には相談者の司法に対する過大な期待がある。(157頁)

そうして、著者は、自身のエピソードを紹介する。

著者が通っている整体院が税務調査を受け、ある費用の経費性が問題となったそうだ。
その調査官の態度が大変横柄で、整体師に対し、「屁理屈なんてこねてないでさっさと追加で税金10万円払って終わりにしろ!税務署と揉めてもロクなことないぞ!」などと言い続けたという。

整体師は、お客さんの弁護士に相談したところ、弁護士は、「1日の売上が10万円なら、たった1日分の売上程度の話なんだから、そんなものはさっさと払って忘れてしまって、仕事に専念したほうがいいんじゃないの」と答えた。

しかし、その整体師は納得できない。
その整体師は、税務署とのやりとりをすべて録音しているという。

整体師から相談を受けた著者は、所轄の税務署長宛に手紙を書くよう勧めた。
整体師は、著者のアドバイスに従って、録音テープを添えて、税務署長に丁寧な抗議の手紙を送った。

するとどうなったか。

その結果、税務調査は打ち切りになってしまった(当然、追徴額を払う必要はない)。(160頁)

こういうアドバイスも大事なのかもしれない。大事なのは、目的を達成できるかどうかであり、法的手続をとるかどうかは関係ないのだ。法的なアドバイスではないとしても、それで目的を達成できる可能性があるのであれば、十分価値のあるアドバイスだ。

「お金の問題じゃないんです!」という相談者は弁護士からみれば危険だけれども、事実、お金の問題じゃないときもある。考えさせられるところである。

利用者の視点からの民事裁判

このように、本書は、著者が一市民として民事裁判を利用した体験記である。
著者は知的レベルが高く、事件に著者自身の利害関係が大きく絡んでいるわけでもなく、なおかつ、法律には素人である。そのため、利用者としての感想が、冷静で客観的に書かれており、非常に貴重な本である。
紛争を抱えて民事裁判を考えている人にも、司法関係者にも、おすすめの本である。

 

 

改善したければ失敗を責めるな!あえて失敗しろ!「失敗の科学」

この本は、失敗の効用についての本である。試行錯誤、トライアンドエラー、PCDAといった言葉が当てはまるような失敗と改善の繰り返しが、いかに効果的なものであるかを教えてくれる本である。翻訳者が上手なのか、翻訳本であるにも関わらず、文章がとてもわかりやすく読みやすい。

https://www.instagram.com/p/BQzaRtulzJ8/

改善するには失敗するしかない

航空業界の事故率は非常に低く、飛行機が非常に安全だというのはよく知られている。これは、失敗を隠さず、失敗に向き合い、改善する、という作業を繰り返してきた結果だという。
なにごとも、改善するには失敗するしかなく、場合によっては改善するためにわざと失敗を繰り返す必要があるという。

ビジネスや政治の世界でも,日常生活でも,基本的な仕組みは同じだ。我々が進化を遂げて成功するカギは,「失敗とどう向き合うか」にある。(17頁)

理論もへったくれもない!失敗しろ!

ホットドッグの早食い競争で驚異的な結果を出していることで有名な小林猛氏も、特別な身体的特徴があるわけではなく、単に試行錯誤を繰り返した結果、このような結果を出せるようになったという。

そこで、パンを水につけてみた。水の温度を変えたり、水の中に植物油を数滴混ぜたりもした。その間、彼は自分のトレーニングの様子を録画し、データをとり、さらに少しずつ違う方法を試した。全速力で一気に食べたり、ペース配分したり、ラストスパートをかけたりもしてみた。
さまざまな噛み方や飲み込み方、食べたものが胃に入りやすいように(そして吐かずに済むように)腰を揺らす方法も考えた。こうして小林は、小さな仮説をひとつずつ丁寧に検証していった。(234頁)

トライアンドエラーは、自然界の適者生存とも共通する法則のようだ。
ユニリーバのエピソードは、トライアンドエラーの効果を確信させてくれる。

ユニリーバは、洗濯用洗剤の製造工場で使用しているノズルがすぐに目詰まりを起こすことに悩み、一流の数学者チームに改善を依頼した。
数学者チームは、専門知識を駆使して徹底的に調べ上げ、複雑な計算式を数々導き出して、長年の研究を重ねた結果、ひとつのノズルのデザインにたどり着いた。

しかしながら、結果は失敗。
目詰まりはまったく改善しなかったという。

その後、ユニリーバは、ダメもとで、生物学者チームにノズルの改善を依頼した。
生物学者チームは、まず、目詰まりするノズルを10個用意し、それぞれにわずかな変更を加えた上で、違いをテストした。
そのなかで、わずかにではあるが一番良い結果が出たノズルを1つを採用し、これに対してまたわずかな変更を加えたものを10種類用意し、違いをテストする。
またそのなかでわずかにではあるが一番良い結果を出したノズルを採用し、これに対してさらにまたわずかな変更を加えたものを10種類用意し、違いをテストする。
これを繰り返したのだ。

こうして45世代のモデルと449回の失敗を経て、チームは「これだ!」というノズルにたどり着いた。(150頁)

最終的に出来上がったノズルは、どんな数学者も予測し得ない形をしていた。(150頁)

理論もへったくれもなく愚直にトライアンドエラーを繰り返すことによって、最適なものにたどり着くことができるのだ。
悩んでいる時間があったら直ちにトライアンドエラーを始めるべきということのようだ。

確証バイアスがトライアンドエラーを排斥する

仮説を支持する情報ばかりを集めてしまい、反証する情報を無視してしまう心理的傾向のことを、「確証バイアス」というらしい。
トライアンドエラーの効用は明らかだが、確証バイアスは、トライアンドエラーを排斥し、正解を遠ざける。
その例として挙げられているクイズの話が面白い。

このクイズは、「2、4、6」という3つの数字を見て、どのようなルールで並んでいるかを当てる、というものである。解答者は、3つの数字を言うと、それが同じルールに沿っているかどうか教えてもらうことができ、これは何度でも聞ける。

たいていの人は、「偶数が昇順に並んでいる」と思ったら、「10、12、14」が同じルールに沿っているかどうか聞く。
それが同じルールに沿っていると言われたら、今度は、「100、102、104」を聞く。
このように、同じルールに沿っていると思う3つの数字を聞いてみて、それが同じルールに沿っていると言われる、ということを何回か繰り返し、偶数が昇順に並んでいるのだという確信に至るのだ。

しかしながら、実は、ルールは、単に「数字が昇順に並んでいる」というものだったらどうか。昇順に並んだ3つの偶数をいくら聞いてみてもルールに沿っていると言われるので、正解にはたどり着かない。

このクイズに正解するには、わざと間違えるしかないそうだ。
「偶数が昇順に並んでいる」と思ったら、仮説に当てはまる「10、12、14」を聞くのではなく、仮説に当てはまらない「2、4、5」を聞く。
そうすると、これもルールに沿っていると言われるので、「偶数が昇順に並んでいる」という仮説が間違っていたことがあっという間に分かる。
「じゃあ1桁の数字が昇順に並んでいるだけなのかな」と思ったら、「10、12、14」を聞いてみる。
そうすると、これもルールに沿っていると言われるので、「1桁の数字が昇順に並んでいる」という仮説も間違っていることが分かる。
こうして、わざと間違えることによって、正解に近づいていくことができるのだ。
仮説に当てはまる数字ばかりあげていたら、いつまでも正解にたどり着けない。

進んで失敗する意志がない限り、このルールを見つけ出す可能性はまずない。…失敗をすることは、正解を導き出すのに一番手っ取り早い方法というばかりでなく、今回のように唯一の方法であることも珍しくない。(130頁)

認知的不協和が失敗を認めさせない

認知的不協和」は、自分の信念と事実とが矛盾していることによって生じる不快感やストレス状態のことだそうだ。
人は誰もが、自分は正しいと信じている。そのため、自分の信念に反する事実が出てくると、ストレス状態に陥る。

そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。1つ目は,自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単,怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが。
そこで出てくるのが2つ目の解決策,否定だ。事実をあるがままに受け入れず,自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり,忘れたりしてしまう。そうすれば,信念を貫き通せる。ほら私は正しかった!だまされてなんかいない!(103頁)

この傾向が深刻なのが司法の世界だそうだ。
本書では、ある検事の例が紹介されている。

8歳の少女をレイプしたとして有罪判決を受けた被告人が、DNA鑑定の登場後、少女の衣服に付着していた精液のDNAと一致しないことが判明する。しかしながら、検事はこれを受け入れられず、あれこれと理屈をつけて、被告人が犯人であることを延々と主張するのだった。

記録では、この後も同じような突拍子もない主張が249ページにわたり延々と続く。
「つまり4つの可能性があるということだ」とシュルツは指摘する。
「ひとつ、8歳の少女が性的に活発だった。ふたつ、被害者の11歳の姉が性的に活発で、その際は偶然妹の下着を身に着けていた。3つ、第三者が犯行現場にいた(被害者が侵入者は1人だったと証言しているにもかかわらず)。4つ、父親が倒錯した方法で被害者の下着に精液を付けた」

 

もちろん、もうひとつ大事な可能性がある。犯人は別にいる。(111頁)

司法の世界は、失敗を活かして事実認定の正確性を向上させようなどと思っている人はほとんどいないのではないか。
みんな、どうせ真実を確実に知る方法はないとあきらめながら、そして、確証バイアスや認知的不協和に思いっきりとらわれながら、失敗などしたことがない振りをして、真実発見よりも文句を言われないことと文句を言わせないことが至上命題であると考えて事実認定しているのではないか。

ベーコンは17世紀における科学の停滞を指摘したが、現在の我々も同じ状況に直面している。ただし、今日ベーコンがもたらしたような革新が求められているのは、自然科学(物理学、化学など)よりも、社会科学(政治学、法学、経済学、社会福祉学など)の分野においてだ。(316頁)

本書では、学習しているかどうかを確認するための3つの質問が紹介されている。

あなたは判断を間違えることがありますか?
自分が間違った方向に進んでいることを知る手段はありますか?
客観的なデータを参照して、自分の判断の是非を問う機会はありますか?
すべて「いいえ」と答えた人は、ほぼ間違いなく学習していない。これは、自明の理だ。モチベーションや熱意に問題があるわけではない。問題は、暗闇でゴルフの練習をしているその「やり方」にある。(321頁)

司法の世界の住人にこれを質問したら、すべてに「いいえ」と答えるに違いない。
事実認定を間違えることなどないし、間違った方向に事実認定していったとしてもそのことを知る手段はない。客観的なデータに照らして自分の事実認定が正しかったかどうかを確認することもできない。
暗闇でゴルフの練習をするのと同じだ。
学習していないのだ。

失敗を活かすには失敗を責めない制度が必要

失敗を活かすには、単なる心がけだけでは駄目なようだ。原因は、「単純化」と「責任追及」だそうだ。

「単純化」は、どうせ結果はもう分かっている、確認する意味ないよ、というような気持ちのことらしい。

実は、「正しいかどうか試してみる」を実行に移すには大きな障壁がある。実は我々は知らないうちに、世の中を過度に単純化していることが多い。ついつい「どうせ答えはもうわかっているんだから、わざわざ試す必要もないだろう」と考えてしまうのだ。これは案外根深い問題かもしれない。(161頁)

誰もが自分は頭がいいと思っており、答えも分かっていると思っているから、確認する必要性を感じない、ということのようだ。
「責任追及」は、単純化の一種のようだ。何か間違いがあれば、だれかを悪者にして責任追及して満足する。間違いの原因など考えない。

何か間違いが起こると、人はその経緯よりも、「誰の責任か」を追求することに気を取られる傾向がある。我々は、たとえどれだけ複雑な出来事でも、新聞や雑誌の見出しのように単純化してしまうのだ。(243頁)

しかし、ビジネス、政治、航空、医療の分野のミスは、単に注意を怠ったせいではなく、複雑な要因から生まれることが多い。その場合、罰則を強化したところでミスそのものは減らない。ミスの報告を減らしてしまうだけだ。(254頁)

我々にはこういう傾向があるので、失敗を活かそうとするのであれば、心がけるだけでは足りず、航空業界のように失敗を責めず、失敗を活かす制度をつくる必要があるようだ。

人生はトライアンドエラー

このように、この本は、失敗の効用をわかりやすく説いてくれる良書である。仕事でも何でも、あれこれと悩まずにさっさとトライしてみようという気持ちにさせてくれる。

あれこれ悩んで行動できない人にお勧めである。

 

 

ミニマリズムのその先の世界 「オランダ式倹約セラピー」

この本は2001年の本であるが、その後の私の人生を変えた本である。

https://www.instagram.com/p/BQUtX_wFKRt/

なぜオランダ式なのか

オランダ人はケチで有名なのだそうだ。

オランダ人の倹約家ぶりは,“ゴーイング・ダッチ(オランダ人式で行こう)”という言葉があるとおり,つとに有名です。(4頁)

この本は「禁煙セラピー」と同じシリーズなので「セラピー」というタイトルになっているが、内容は全然セラピーではない。
また、「倹約セラピー」というタイトルではあるが、倹約に関する本というよりも、生き方に関する本である。
この本に書かれているオランダ人の生き方は、読者の生き方にも様々な示唆を与えてくれる。

人間は奇妙な存在だ。

この本で最もすばらしいのは、倹約に関する話ではなく、オランダ人が口癖のように言う言葉である「It's normal」についてのコラムである。
このコラムでは、オランダ人が、どんなに変わった状況でも「It's normal」と言って、見て見ぬふりをする様子が語られている。

こと感心するのは,オランダ人はおしなべて“見て見ぬふり”ができるという点である。(98頁)

ここでいう「見て見ぬふり」というのは、悪事を見逃すとかではない。変わった人がいても、変わったことがあっても、奇異な目で見たりせず、何とも思っていない振りをするということだ。他人に関心がないわけではなく、実際には気にしているんだけれども、何とも思っていない振りをするのだ。

聞くところによると,オランダ人は「人間は普通に行動しているだけで充分に奇妙な存在だ」と教えられて育つらしい。その話を聞いて,彼らが口癖のように“It's normal”を連発する所以が多少なりともわかったような気がした。
どうりで他人が何をしようと,どう思っていようと,「お好きなように」なわけだ。(98頁)

人間は普通に行動しているだけで充分に奇妙な存在だ

本当に素晴らしい言葉だと思う。
自分の生き様を変えたひとことである。
実際、その通りだ。
自分は変なんじゃないかというような悩みとか、何かを恥ずかしく思う気持ちとか、コンプレックスとか、他人に対するフラストレーションとか、そういった思春期的な問題が、この言葉に出会ってすべて解決されたような気がする。
人は普通にしていても充分に奇妙な存在なのだ。もともと変なのだから、鼻毛が出ていたとしても、歯に青のりが付いていたとしても、チビでも、デブでも、ハゲでも、ブサイクでも、短足でも、貧乳でも、大して変わりはない。もともと変なモノがちょっと違った感じの変なモノに変わっただけだ。いずれにせよ変なことに変わりはない。
変な人に出会って嫌な思いをしても、人間はもともと奇妙な存在なのだから、とくに引きずって悩むこともない。

また、こうやって見て見ぬ振りをすることは、その人の自由を尊重することでもある。奇異な目で見たり眉をひそめたりするのは、その人を非難し、居心地を悪くさせ、排除しようとするアクションである。それは、その人の自由を認めないというアクションである。どんなに変な風貌の人であっても、どんなに変なことをしていても、それが悪いことでなければ、何とも思っていない振りをしてスルーするのが、その人の自由を尊重することなのだ。
真のリベラリストとはこうあるべきだ。

オランダ式はミニマリズムのその先

この本は2001年の本で、当時はミニマリストなんて言葉はなかったが、この本に書かれているオランダ人の生活はまさにミニマリストだ。必要最小限のものしか持たない。

かくしてオランダ人は,必要最小限の大好きなものばかりに囲まれて過ごす贅沢を味わいたいがために,日々の慎ましやかな生活を黙々と遂行していくのである。(40頁)

ミニマリストはモノを最小限にするので、服や食事にかけるお金まで最小限にしないと思うが、真のミニマリストたるオランダ人は、衣食にかけるお金も最小限である。

毎日の衣食に関してお金をかけるオランダ人は,ほとんどいない。「衣食にお金?かけてますよ」と言うオランダ人はさらにいない。彼らは実直なうえ,衣食に時間とお金を費やすことをバカげているとさえ思っているのだから。(24頁)

20年以上前のスキーウェアでも着続ける。お客さんにもコーヒーは出すがお菓子は出さない。ハムもこれでもかというほど薄く切る。
これは、そういう人が多いというレベルの話ではなく、オランダ国民みんながそうなのだ。

事実,現在デパートのキッチン用品売り場でハム・スライサー(ハム専用スライス機)が売られているが,一ミリよりまだ薄い設定の目盛りがあるところを見ると,「これでよし」という国民の強い意思とメーカーの自信がうかがえる。(48頁)

ただし、家には、お金をかけるのだそうだ。

では,何にお金を使うのか。衣食にお金を使わない,となれば,残るは“住”である。これに関しては,見事なまでの使いっぷりを披露してくれる。オランダ人のもっとも重要な買い物は,単純明快,“家”なのだ。
家に対する執着心は,日本人のそれよりもずっと強いように思われる。(31頁)

お金を惜しまずに居心地のよい家をつくり、その家で最小限の好きなものに囲まれて暮らすのがオランダ人なのだそうだ。
優先順位がはっきりしている。幸せとは何かについて確信がある。とても素晴らしいと思う。

ものは使い切る

オランダ人はものを徹底的に使い切る。必要でないものを買うことに罪悪感を感じるそうだ。

ひとつのものを擦り切れるほど使い切って,やっと次のものを買う。リサイクルできる不要物は,リサイクル・ボックスに入れるために外出する手間をいとわない。それが日常化しているため,壊れかけたもの,要らないものを“捨てる”機会はなかなか巡ってこないのだ。(22頁)
オランダ人はじつに“モノ持ち”がいい。ひとつのモノをボロボロになるまで大切に使う。いや,ボロボロにならないように大切に使っている。そもそもすぐにダメになってしまうモノは買わないし,どうしても必要でないモノを買うことに罪悪感を持っているようだ。(54頁)

靴下に穴が開いても捨てない。縫って穴を塞げば使える。
コートに穴が開いても捨てない。寒さをしのげるのであればそのまま着る。
必要性が生じない限り、買わない。
素晴らしいと思う。
自分もオランダ式を見習って、1999年に買ったプーマのジャージを未だに使っている。ただ古いからという理由で捨てたり、新しいジャージを買ったりするなんてオランダ式ではあり得ないのだ。

たとえ不要になっても捨てない。それを必要とする人に売ればよいのだ。
著者の友人のスーザンは、自転車の荷台に付けるカバンが不要になったので、売ることにしたそうだ。

耳を疑った。見れば,スーザンが通学に使っていたであろう紺色の鞄(鞄というより袋といった感じだ)があり,かなり使い込んだ様子がうかがえる。これを売る気なの?これでは五ギルダー(五〇〇円相当)でも買う人はいないだろう。
それより,五ギルダーのために,わざわざ背景のキレイな公園まで来て撮影し,現像し,掲示板に載せ,家まで見に来る人に説明する手間ひまを考えると,捨てた方が早いのでは……と思ってしまった。(80頁)

捨てないためには労力を惜しまない。
ヤフオクとかメルカリとかのおかげで、こういうオランダ式も実践しやすくなった。メルカリなんか見てると、こんなもの誰が買うんだというものも売られているし、そんなものを買う人もいる。本当に良い方向に進んでいると思う。時代はオランダ式にようやく追い付きつつあるのだ。

買う前によく考える

オランダ人は、買う前によく調べて、よく考えてから買うそうだ。
買うものを探しに店に行くようなことはないらしい。
著者が空港でリップクリームを買おうとしたとき、店員にこう言われたそうだ。

どのシリーズがあなたに合うか,調べてきましたか?え?わからない?それなら今日は買うのをやめたほうがいいわ。高価なものなんだから,全部試していたら,時間もお金も無駄になるだけよ(102頁)

また、著者が車を買おうと思って友人に相談したときの友人の回答もこうだ。

一.小さい車に乗ろうというのは偉い。なぜなら重量の軽い車は税金も安いからだ。
二.ただし,駐車場が狭いから小型車に乗るという理由は間違っている。運転に自信がないなら,事故に備えて大きな車に乗るべきだ。
三.オランダでオートマチック車に乗るのは,身体の不自由な人かお年寄り,そして日本人だけ。高いのは当たり前だ。
四.マニュアル車を操作してこそ,自動車に乗るだいご味がある。
五.できるだけ故障しないほうがいいが,多少の故障はその車の愛嬌だと思え。車も人間と同じなのだ。
六.いつか車を手放す気なら,そのときの価値を考えるべきだ。新車か中古車かはあまり問題ではない。
七.そもそも予算がいくらなのか,それすら決めずに人に相談することをキミはどう思っているのか。ボクは迷惑だ。
八.自動車を買えば,自動車保険に入らなければならない。それすらキミは知らないだろう。
九.わからなければいくらでも教えてあげるから,ひとりで決めずに相談すること。(116頁)

買う前によく調べて、よく考える。
自分もこれを実践するようになってから、買ったものについてあまり後悔しなくなったし、なぜそれを買ったのかを他人にも説明できるようになったような気がする。
やってみると、買う前によく調べてよく考えるというプロセスそのものがまた楽しい。
ここ最近買ったものでも、事前に調べて、よく考えてから買ったものは、なぜそれを買ったのかを説明できるし、後悔もしていない。
事前によく調べてよく考えれば、買い物で後悔することがなくなるのだ。
もちろん、状況が変わったり、考えが変わったりして、買ったものが不要になることはある。そんなときは、キレイに写真を撮って、メルカリで売れば良いのだ。

オランダ式こそが進むべき道

この本に書いてあるようなオランダ人の生き様が今も維持されているのかどうか分からないが、素晴らしいと思う。
これこそが進むべき方向だと思うし、現にその方向に進んでいると思う。
生き様を考えたい人にはオススメの面白い本である。

 

 

お前が電話してきたから絶対入金しない! 「督促OL修行日記」

この本は、クレジットカードの督促業務を行うこととなった普通のOLのサバイバル日記である。

https://www.instagram.com/p/BQE7BFilVHi/

理不尽な債務者たち

著者は、学校を出てクレジットカード会社に勤めたところ、支払がされていないユーザに対する督促を行う部署に配属される。
業務内容は、督促の電話をかけることである。

「お金返してください」ーーああ世の中にこれほど、誰ひとりとして望んでいない電話があるだろうか。
でも、その電話こそが、私がこれからしなければならない「督促」という仕事だった。(19頁)

そんな電話に対し、金を払わないユーザたちの反応は、理不尽きわまりない。

怒る

まず怒る。怒るヤツはたいていろくでもないヤツだが、滞納者の怒り方はとくにひどい。

「オイコラ!!どうなってるんだよ-!!」(88頁)
「カードが使えねぇじゃねえか!どうにかしろ!!××××、○○○○!!」(89頁)

自分が支払を滞納したからこうなっているのに、どうして怒れるのか、意味が分からない。客観的に見れば頭がおかしいとしか言いようがない。
しかし、オペレーターは、そんな頭のおかしい言い分にまじめに対応しなければならないのである。

脅す

次は脅しである。滞納者たちは、滞納しているくせに、オペレーターを脅しにかかる。

「今からお前を殺しに行くからなーー」
お客さまはそう言うと、プツリと電話を切りました。(10頁)

「わかった。そこまで言うなら、直接会って話そうじゃねぇか。N本とかいったな。今から高速飛ばして行くから待ってろよ!」(54頁)

「ああ。今、XXインターまで来た。もうすぐ着くからな」(56頁)

「お前の会社に爆弾を送った」(58頁)

バカじゃないだろうか。
しかし、オペレーターは、そんなバカの脅し文句を聞かなければならないのである。

「今から行く」と言って本当に来る人はほとんどいないようだが、こんなバカに実際に危害を加えられたらたまったものじゃない。

説教する

そして、説教する。

ある時、50代の女性に督促の電話をかけた際にこんなことを言われた。
「こんな人を不愉快にするような仕事、しない方がいいと思いますよ!!まじめに働きなさい、まじめに働くことだけを考えなさい!」(136頁)

お前がまじめに金払え!」と返す速さを競うべきところだ。
しかし、オペレーターは、この説得力ゼロの話を、反論せずに聞かなければならないのだ。

意味不明なことを言う

さらに、意味不明な論理で反論する。

「今日入金しようと思ってたんだよ!あーもー、お前が電話してきたからやる気なくなったわー、頭に来たからもう絶対入金しないから」(142頁)

理不尽すぎる。
これが日本の現実だと思うと絶望的な気分になる。
オペレーターの心が壊れて当然である。

使い捨ての感情労働の現場

こんな業務を毎日行っていれば、オペレーターは心身ともにぼろぼろになって当然である。
クレジットカード会社は、そんなオペレーターをどんどん使い捨てていく。

でも実際、異動してみると、そこで行われていたのは、おおげさに言うと人の消費や使い捨てのような労働だった。(131頁)

この本は、著者の性格が反映しているのか、暗い話も全体的に明るい調子で書かれている。そのため、あまり深刻にならずに読めてしまう。
だけれども、書かれている内容をよくよく考えると、かなり深刻な話である。

ある日、お昼休憩に抜ける途中、ふと私がオペレーターブースの一角を通りかかった時のこと。
区切られたブースに座る一人のオペレーターの女性が、はらはらと涙を流しながら電話をしていた。(129頁)

私が慌てて手を叩くと…すぐに男性社員が飛んできてオペレーターからヘッドフォンとマイクを取り上げて電話を代わってくれた。
泣いているオペレーターは別の女性社員が付き添ってコールセンターの外へと連れていく。でも、彼女の周りにいるオペレータはちらりと彼女を目で追った後、何事もなかったように電話を続けている。もうコールセンターではこういった出来事は日常茶飯事なのだ。
(また、一人ダメになったなぁーー)
ぽっかりとひとつ空いてしまったブースに注がれるのはそんな冷やかな視線だった。(130頁)

出社して朝イチで取った電話で、オペレーター本人やご家族から退職の申し出を受けることも珍しいことじゃなかった。(131頁)

大げさでも何でもなく、文字どおり使い捨てである。
人生が嫌になる職場である。コールセンターの人員募集に人が集まらないのも当然である。

こんな仕事が本当に必要なんだろうかと本気で思ってしまう。こんな仕事はなくしてしまった方が世のため人のためになることは明らかである。

こんな督促の電話はそもそもする必要がない。自動発信の自動音声でいいではないか。単に忘れているだけなら気づくし、それでも払わない人は客じゃないから回収できるだけ回収してサヨナラすればよいのに。何でこんなことしてるんだろうか。クレジットカード会社が人件費と労力をかけてわざわざこんなことをしている以上、こんな不良債権でもオペレーターが電話で督促することで回収できれば、それだけの利益が得られるのだろうか。そうであれば、やめさせるには、人件費を上げるしかないのかも知れない。

生き残る知恵

著者は真面目な人のようで、私のようにただ理不尽を嘆きくだけでなく、理不尽の存在を認め、その中で生き残るための努力をはじめる。

もう少しなんとかならなかったの?もう少し負担を減らせる方法があったんじゃない?とコールセンターで働く誰かが辞めていくたびに悔しく思った。
よしじゃあ、いっちょ、実験しよう、と思った。
幸いなことに(?)私は督促が苦手だった。自分で言うのもなんだけど、心も体もボロボロだった。
私が督促できるようになれば、お客さまに言い負かされないようになって、お金をちゃんと回収できるようになれば、そのノウハウはきっと使える。(136頁)

この本が描く督促の現場はなかなか深刻だが、著者のこのような性格によって、読者があまり深刻な気持ちにならないようになっている。

本書では、そのような著者が督促の現場で身につけた督促の知恵がいくつか紹介されている。

約束の日時は相手に言わせる

これによって、相手が約束を破った場合に相手の罪悪感を刺激することができるそうだ。何の強制力もない電話での督促では、このような些細なことでも武器として使えるのだろう。

要求せず質問する

人間の脳は疑問を投げかけられると、無意識にその回答を考えはじめるそうだ。
著者は、その知見を活かす。
「支払ってください」と要求するのではなく、「いつであれば入金可能でしょうか?」「いくらであれば入金可能でしょうか?」と質問した方がよいという。
そうすると、相手は、自然と質問について考えだし、いつであれば/いくらであれば払えると回答するようになるという。
これによって、「約束の日時を相手に言わせる」ことにつなげられるのだ。

付箋を読む

人は突然怒鳴られるとフリーズしてしまうものだ。
そんなときは、付箋を読めば良いという。

「私、クレームとかでお客さまに怒鳴られると、とっさに言葉が出てこなくて、何も言えなくなっちゃうんです。だから、そういう時はこの付箋を読むことに集中するようにしているんです」(155頁)

これに近いことは自分もやっている。面倒なヤツに電話するときは話す内容やキーワードをメモしておき、言葉が出なくなったらそれを読むのだ。

いずれにしても、こんなテクニックが必要となるとは、なんとも過酷な現場である。

他にも様々なテクニックが

このほかにも、怒られないしゃべり方足つねりツンデレ督促「謝ればいいと思っているんだろう!」と言われない謝り方、などなど、著者が実践の現場で得た督促テクニックが各所で紹介されている。
どれも、現場に身を置く者にとっては命を救う知恵であるに違いない。

よいこともある

なにもメリットがなさそうな督促の現場だが、よいこともあるという。

ところが「督促道」を身につけるにつれ、不思議と長らく曇っていた目から靄が取れ、瞬時に「あ、この人はだめんずだ」とわかるようになった。まるで長らく債権回収をやっていると、人を見て「この人借金してる」とわかってしまうように(ある意味近いのかも)。(214頁)

そういう人が目を覚ますためには良いのかも知れない。他にもっとましな方法がありそうな気もするけれども…。

すべてが間違っている

この本の著者は、理不尽を嘆くのではなく、理不尽の存在を認め、理不尽の中で生き残ろうと努力する。

そのような著者の姿勢が、なおさら読者の正義感を刺激し、「そもそもこんなのは間違っている」という思いを強くさせる。

使い捨ての感情労働に対する問題意識を確認したい人におすすめの本である。

 

 

底知れぬ知的好奇心と蘭学の融合爆発 「江戸の理系力」

江戸時代の人たちは、黒船が来たときに「蒸気船が来た!」と言い、その2年後には蒸気船を作ってしまったそうだ。
本書は、そんな江戸自体の人たちの知識水準の高さや知的好奇心の強さに驚きながら楽しむことのできる、休日向けの本である。

https://www.instagram.com/p/BPy-1NvlLAz/

本書は、天文暦学、測量学、医学、数学の4分野について、江戸時代の「理系力」の高さを解説する。

【天文暦学】古代中国の暦からグレゴリオ暦を超える精度の暦へ

日本では、なんと、平安時代に唐から導入した「宣明暦」を、862年から1685年までの823年間も使い続けていたのだという。
それだけ宣明暦が優れていたということなのだが、これだけ長く使うとやはり誤差が生じ、夏至冬至がずれたりなどの不都合が生じたため、江戸時代に入って改暦が進められたのだそうだ。

1685年(貞享2年)1月1日、日本で初めて独自の暦が採用された。

こうして宣明暦が導入された貞観4年(862)以来、じつに823年使われた宣暦が廃され、日本初の独自の暦が採用されたのである。(35頁)

その70年後の1754年(宝暦4年)には「宝暦暦」に改暦されるが、これはあまり良いものではなかったらしい。

このころ、八代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、西洋の知識が流入し始める。

そのようななかで、西洋の天文学や数学を学んだ高橋至時間重富が、1795年(寛政7年)に幕府の天文方に任命され、新たな暦を完成させた。
そして、1798年(寛政10年)、高橋至時間重富が完成させた暦が「寛政暦」として施行された。

それは初めて西洋天文学の理論を取り入れた暦であり、日本の暦史上において、まさにエポックメイキングな出来事となった。(56頁)

さらにその後、高橋至時次男である渋川景佑は、フランスの天文学者ラランデの著書である「ラランデ暦書」を翻訳。
渋川景佑はラランデ暦書の理論を取り入れた暦を完成させた。
この暦が1844年(天保15年)に「天保暦」として施行された。

この天保暦の精度は驚くほど高いそうだ。

天保暦がはじいた太陽年は365.24223日。それに対してグレゴリオ暦のそれは365.2425日。これは当時の平均太陽年に対して、天保暦のほうが0.00027日だけ誤差が小さいのである。(57頁)

明治に入って、より精度の低いグレゴリオ暦に合わせた。行きすぎてしまったのだ。

【測量学】地球を測るついでに蝦夷地の地図をつくる

江戸で測量といえば伊能忠敬間宮林蔵だ。本書でも伊能忠敬間宮林蔵の功績が解説されている。伊能忠敬は、地球の大きさを測ろうと思った流れで蝦夷地の地図をつくったそうだ。

伊能忠敬は、息子に家督を譲った後、「寛政暦」を作った上述の高橋至時に弟子入りしたという。

伊能忠敬は、地球の大きさを知るため、2地点の距離と緯度差から子午線の長さを求めようと考えた。
これに対して、高橋至時は、「短い距離では誤差が大きすぎる、少なくとも江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測らなければ意味がない」と助言したという。
この助言を受けて、伊能忠敬は、「蝦夷地の地図をつくる」という口実で幕府から許可を得て、蝦夷地へ観測の旅に出た。

蝦夷地での測量の結果、伊能忠敬は、緯度1度の距離は28.2里であると算出した。
1里は3.927kmなので、28.2里は約111km。111km×360度=約4万km。

ちなみにこの数値、誤差は0.3パーセントという驚異的に正確なものである。(81頁)

のちに、この数値が上述の「ラランデ暦書」の数値と一致することを知り、師弟らが大いに喜んだそうだ。

この「地球の周囲を測る」という話がなければ、伊能忠敬蝦夷地には行かず、伊能忠敬の驚くほど正確な北海道や樺太の地図が作成されることもなかったかも知れない。

【医学】解剖し、翻訳し、麻酔を作り、手術をする

人体解剖して肺に息を吹き込んでみる

江戸時代前期までは、日本固有の医学である和法、朝鮮半島から伝来した韓医学、中国から来た中医学の三医学を合わせた「漢方医学」が主流であった。しかしながら、伝統的な中国医学では、臓器の正確な位置などといった人体の内部構造は秘伝扱いされていたという。

そのような中で、1754年、伝統的な中国医学に疑問を持った山脇東洋という医師が、日本で初めての人体解剖を行う。このときの観察記録が面白い。

このときの観察記録が『蔵志』であり、門人・浅沼佐盈の書いた挿絵の横に、東洋が「気道は食道の前にある」「肋骨は左右とも9本ずつ」「両肺とも内側には小さい孔が無数にある」などの説明を記している。肺に関する記述では、「管を以て気道を吹けば則ち両肺は皆怒張し」とあるから、肺の機能に関する実験を行っていることがわかる。(116頁)

管に息を吹き込んでみたら肺が膨らんだと。
まさに理系的な観察者の態度である。

「草場の陰」さんの功績

山脇東洋の「蔵志」が刊行されて以降、解剖が次々に行われるようになる。
杉田玄白も、これに続いた一人である。杉田玄白は、解剖に立ち会った結果、ターヘル・アナトミアの記載内容が正確であることに驚き、これを翻訳することを決意する。しかし、翻訳作業はなかなか進まない。

生来の虚弱体質であった玄白は悲観的になり、「終わりまでは生きられそうにない。翻訳完成は草場の陰で見るだろう」と漏らしている。おかげで玄白は桂川甫周から「草場の陰」という縁起の悪いあだ名をつけられる始末だ。それでもどうにか1年半で作業は完了した。(122頁)

こうした「草場の陰」さんらの努力の結果、解体新書が刊行されたのだ。

世界初の全身麻酔手術

華岡青洲による世界初の全身麻酔手術の話は、やはりすごい。

紀州華岡青洲乳がんの摘出手術に成功したのだ。しかも、全身麻酔を用いて……。アメリカの歯科医ウィリアム・モートン全身麻酔による手術に成功するのは42年後のこと。まさに世界初の快挙であった。(123頁)

全身麻酔をするにはそのための麻酔薬が必要なのだが、華岡青洲は、様々な漢方薬を参照しながら、独自にこれを開発する。開発に至るまでには大きな犠牲もあったようだ。

このいっぽうで青洲は独自の研究も重ね、20年以上も実験に明け暮れて、ついに世界初の全身麻酔薬となる通仙散(麻沸湯とも)の開発に成功する。人体実験の過程で母親を死なせ、妻を失明させた末の成果であった。(125頁)

そして、当然のことながら、手術も命がけだ。

この麻酔薬を用いた手術がおこなわれたのは、文化元年(1804)10月13日である。患者は藍屋利兵衛の母親で、名は勘。手術をためらう青洲を「死んでも本望」と激励して手術を受けたという。(125頁)

母を死なせ、妻を失明させ、患者には「死んでも本望」と手術を激励される。青洲はとても信頼のある医師だったに違いない。

これ以降も、青洲は、次々と手術を成功させたという。

手術成功の報はたちまち全国に広がり、青洲のもとには患者が押し寄せた。青洲は乳がんばかりでなく、膀胱結石、舌がん、重症の痔、兎唇(口唇裂)、多指症などの手術も、麻酔薬を使って次々と成功させた。(125頁)

これを読んで画像検索してみたら、手術をする青洲の姿もまた味わい深い。

【数学】娯楽と奉納

本書では、「算聖」と呼ばれた関孝和の話や、世界初の先物市場の話などが紹介され、
江戸時代の数学のレベルの高さが解説されている。

著者によると、江戸時代の数学には、2つの特徴があるという。

ひとつは、ある一人の研究者が和算の問題を出すと、ほかの人が解答を編み出し、さらに新しい問題を提出する。するとまたほかの人が研鑽を積んで解答を見つける……という、クイズのように問題と解答をリレーしてゆく「遺題継承」の習慣である。(138頁)

つまり、数学は学問ではなく、「娯楽」だったのだ。
今も、大人になってから学生時代の数学をやり直す本がたくさん売られている。
必要もないのに、ただ楽しむために、数学の本を買って、問題を解く。
義務としてではなく娯楽としてであれば、みんな数学が好きなのかも知れない。

もうひとつの特徴は、数学の新しい問題を編み出すと、これを、絵馬を巨大にしたような「算額」と呼ばれる学位、美麗な図入りで書き出し、神社に奉納する「算額奉納」という独自の習慣である。(138頁)

これを読んで「算額」というものを知り、また画像検索してみたら、古めかしい絵馬に複雑な図形問題などが描かれていた。
オーパーツのような意外さだが、これが本当の江戸時代なのだ。江戸時代の人々は、複雑でハイレベルな数学の図形問題を楽しんで解き、良い問題ができると絵馬に描いて神社に奉納する人々だったのだ。

しかし「算額」は良い。素敵な「算額」のレプリカがあれば自宅に飾りたいほどだ。

知的好奇心と知識吸収

このように、本書は、江戸時代の科学技術や知識のレベルの高さについて、楽しみながら再認識できる本である。
人々の知的好奇心の強さに驚くとともに、八代将軍徳川吉宗による禁書解禁の功績がいかに大きかったかを改めて認識させられる。
休日にゆるく読むのにオススメである。

 

 

小一時間問い詰めたくなる変な女の物語 「夫のちんぽが入らない」

この本は、著者が、20年かけて右往左往しながら幸せを受け入れる過程をつづった本である。
著者は、自己評価が低いためか、大人になっても様々な問題に対してあらぬリアクションする。そのリアクションは、いちいち、「マジで言っているのか」と小一時間問い詰めたくなるものばかりである。

https://www.instagram.com/p/BPgsloglgZ6/

幸せを何だと思っているのか

まず、著者と著者の夫は、端から見ると、非常に幸せな夫婦である。
学生時代の交際期間中も、幸せいっぱいである。

授業が終わると、学食で「中学生」と安い定食を食べ、コンビニでお菓子を買って、肩を並べて稲妻荘に帰る。稲妻温泉にも行く。性的なことはしないで同じ毛布に包まって眠る。これのどこが不幸なのか分からない。(46頁)

本書には、夫がいかに著者を信頼しているかをのろける記述が多々現れる。
結婚する際、著者の夫は、著者の父に対してこう言ったという。

それは父の一言がきっかけだった。
「うちの娘は気が利かないし、はっきりものを言わない。思っていることを全然言わんのです。まったく情けない限りですよ」
「そうですか?僕はこんな心の純粋な人、見たことがないですよ」(160頁)

そんなことを言ってのける人は見たことがない。

また、著者が子供を産み育てることについての不安を呟いたときも、著者の夫はこう言ったという。

「あんたの産む子が悪い子に育つはずがない」
夫はそう断言した。(161頁)

著者が勤務していた学校を辞めようと思っていることを話したときも、夫は、このように言ったという。

「学校を辞めようと思ってる。もう校長には相談した。辞めてもいいかな」
「自分のしたいようにすればいいじゃない」
「うん、そうする」(127頁)

夫がパニック障害と思われる症状を発症したときも、自分の状態を逐一著者に話している。著者が通院を促したときも、夫はこう言ったという。

「精神科へ一緒に行こう。これはちゃんと薬を飲まなきゃ治らない病気なの。私がちゃんと病院を探して、予約も入れるから」
「……うん」(183頁)

著者の夫は、著者を無条件に信頼していて、著者が考えるとおりにすれば良い、それで悪いことになんかなりっこない、と確信しているのだ。
夫は自分をこんなに信頼してくれているのだというのろけとしか思えない。

このように、著者の夫婦は幸せな夫婦である。

そうであるのに、著者は、この幸せを感じ取ることができず、これをなかなか受け入れない。20年かけて受け入れるまでに、著者はとんでもない右往左往をするのだ。

いつまで母親の呪縛にとらわれているのか

本書では、著者の母親に関する記述がたくさん出てくる。

著者は、自己評価が低い原因は母親にあるのだと訴えているのだ。

母はことあるごとに私を罵った。醜い顔だ、肌は浅黒いし髪はちりちりで艶がない。目鼻もぱっとしない。(41頁)

容姿の劣等感は消えるどころか、成長とともに膨らんでいった。学校で同級生と顔を合わせることにも恐怖と恥ずかしさを覚えた。みんなも母と同じように私のことを醜いと思っているのだろう。そう考えると、顔が真っ赤になったり、どもったりして、うまく話すことができない。(43頁)

要するに、母が著者を醜いと言い続けた結果、劣等感から逃れられなくなり、その劣等感が原因で対人関係が難しくなったというのである。

この母親は、おかしい。
著者が子どもをあきらめたときも、著者の母親は、夫の両親に対してこう言ったという。

「うちの子が身体が弱いために、お宅の後継ぎを産んであげることができず、本当に申し訳ありません。うちの子は、とんだ欠陥商品でして。貧乏くじを引かせてしまい、なんとお詫びをしてよいか」(166頁)

武家かっ!」とつっこんで笑うところであるが、著者は次のようにリアクションしてしまうのだ。

夫のちんぽが入らないこと、子供を産めないこと、教師を続けられなかったこと、母に頭を下げさせてしまったこと、母を恥ずかしいと思ってしまったこと。ただ謝りたかった。(168頁)

何が起こるかではなく、どう反応するかが大切だ、と説く自己啓発本は、正しいと言わざるを得ない。
夫のちんぽが入らないのは単なる面白い話だし、子どもを産めないことも教師を辞めたこともよくある普通のことだ。母が頭を下げたことの方がおかしいし、母を恥ずかしいと思ったのは当然である。そうであるのに、著者は、これらについて「ただ謝りたい」というのだから、理解不能と言うほかない。

これは本気なんだろうか。それとも「謝る必要なんかない」と言って欲しくて書いているのだろうか。

幼少のころに母が著者を醜いと言って劣等感が膨らんだのは分かる。それで対人関係が難しくなったのも分かる。しかし、30歳を過ぎてもおかしな母親の呪縛から逃れられず、母親が夫の両親のところに行って「うちの娘が後継ぎを産めなくて申し訳ない」と謝罪するのを見て、「ただ謝りたかった」と思う、なんてことがありうるのだろうか。

これが本気だとしたら、そんなことがあるのだということを学べただけでも収穫である。そんな変な奴もいるのだ。

セックスを何だと思っているのか

タイトルのとおり、著者は夫のちんぽが入らない。
ジョンソンベビーオイルを使ってトライしたときはこの惨状である。

股の間から絶え間なく流れる鮮血とジョンソンベビーオイル無香性。(61頁)

自分だったらこのあたりで諦めるが、著者は、「夫婦はセックスしなければならない」と思い込んでいるらしく、トライを続ける。「セックスなんてしなくてもいいや」なんていう言葉はまったく出てこないし、「そもそもセックスってしなきゃダメなの?」という疑問も一切現れない。
義務を履行するようにセックスにトライするのだ。
おそらく著者にとって、セックスは、マニフェスト・ディスティニーなのだ。
夫もちんぽを血まみれにしながらトライを続ける。すごい勃起力である。

ジョンソンやメロン液でちんぽがかろうじて入ることがわかったものの、私たちは次第にセックスを回避するようになった。以前にも増して私の局部が裂け、鼻血のようにとくとくと鮮血が溢れるようになってしまったからだ。(117頁)

この時点で8割の男は脱落ではないだろうか。この状況でもなおちんぽを勃たせ、血まみれになりながらセックスにトライできる夫はすごい勃起力だと思う。

できればセックスなんてしたくない。どうしてもしなければいけないのなら知らない人がいい。(118頁)

セックスしろなんて誰も頼んでないのに、この言いぐさ。

ここまでの状況になっているのに、なんと著者は、まだセックスするのだ。

三十五歳。子をもうけることを断念してからは、年に一度、私たちは正月にだけ交わるという神聖な儀式めいた関係を結んでいた。(172頁)

何考えているんだと。セックスをなんだと思っているのか。
そして、どうして夫は勃起できるのかと。

男を何だと思っているのか

著者は、夫が風俗に行ったりAVを見たりしてることについて恨みがましく言及する。

白くてシンプルなカードだ。聞いたことのない店名である。スタンプが七個押されている。数個おきに五百円引きや指名料が無料になるマスがある。「指名」なので美容院だろうか。そんなおしゃれな店に通っていたっけ。しばらく考え、「あっ」と確信した。(69頁)

夫はそう言ったけれど、毎日ビデオデッキに卑猥なテープが差し込まれたままになっているのを私は知っていた。そのタイトルは日々変わっている。(93頁)

履歴がそのままにしてあったので、なんだろうと思い、開いてみると、とてもきらびやかな世界に繋がった。銀色の仮面を付けた下着姿の女の人が前かがみで挑発的なポーズを取っている。
「狂乳パラダイス 超敏感な爆乳」(169頁)

著者は、これも、夫のちんぽが入らない自分が悪いのだというような話に持って行く。

男を何だと思っているのか。

夫のちんぽが入ろうが入るまいが、まったく同じことが起こるに決まっているではないか。

ようやく答えにたどりつく

リウマチの薬を止め、血まみれになりながら子づくりをしていたとき、夫がこう言う。

「もうやめよう。身体をおかしくしてまで産むことなんてない。今まで通り薬を飲んだほうがいい。別に子供なんていなくてもいいじゃない。この先もふたりだけの生活でいいじゃない」(162頁)

このようにして、著者のゆがんだ行動は、ようやく、夫によってまともな方向に軌道修正される。

ちんぽが入らない人と交際して二十年が経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい。子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。私たちは私たちの夫婦のかたちがある。(193頁)

当たり前のことである。この当たり前の答えにたどり着くのに、ここまで右往左往するのだ。

人間とは何と面倒な存在なのかと、疲労感に襲われる。とくに著者は通常人の数倍は面倒だ。

著者は超面倒で馬鹿な奴だと思うが、夫の愛情によって軌道修正できているのだろう。やはり幸せだと言わざるを得ない。

人間の面倒くささと向き合う

この本は、面倒な著者の面倒な物語であり、人間の面倒くささを改めて認識させられる本である。
人間の面倒くささを再確認したい人や、物事にどう反応するかが大事だということを再確認したい人にはおすすめの本である。