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居酒屋を愛しすぎた男の居酒屋論 「日本の居酒屋文化」

マイク・モラスキーの「日本の居酒屋文化」は、本当に面白い本だ。
この本を読む限り、マイク・モラスキーは、やばいヤツである。

https://www.instagram.com/p/BO_a9ZkFuFF/

やばい居酒屋論

先制パンチ

この本は、次の一文から始まる。

あまり自慢できることではないが、私が日本の居酒屋で過ごしてきた時間は半端ではない。(7頁)

なかなかこれを言える人はいない。もうやばいヤツ確定であるが、この本は、そんな著者が、日本の居酒屋論を語る本である。

本書は、前半ではアカデミックな話が続くが、後半に進むに連れてゆるい話になっていくという構成になっているという。

前半部分、つまり第一章から第三章までは、居酒屋の定義や細かい分類法など、ちょっと「アカデミックな」話題が続くが、後半に入ると(それこそ、居酒屋でぐびぐび呑んでいるかのごとく)、徐々に肩の力が抜けて文体も和らぎ、筆者自身の本音が色濃く表れ、おまけに得意な毒舌も勝手に登場することが多くなる。要するに、本書の執筆そのものが、酒呑みとして私自身がだいたい辿るコースを再現している(14頁)

そうして、第一章から「アカデミックな」話が始まるのだが、その後、数ページめくると、いきなりさらっと札幌の狸小路のロシア風居酒屋「バール・コーシカ」の話が出てくる(21頁)。
「バール・コーシカ」は、シベリア抑留帰りの男性が始めた独特の雰囲気のあるロシア風居酒屋で、自分も大好きだったのが、一昨年、惜しまれつつも閉店してしまった。
初っぱなからこの店の話が出てくる時点で、著者が只者ではないことはもう明らかである。

第三の場

さらに著者の「アカデミックな」話題が続く。ここで重要なのは、「サード・プレイス=第三の場」という概念だ。「第三の場」は、家庭とも職場とも異なる場所であって、肩書や責任から解放された一個人として過ごせる場所のことを言うそうであるが、日本では居酒屋こそが「第三の場」であるというのだ。

居酒屋選びの5つの要素

また、著者は、居酒屋選びにおいて重要な要素が5つあるという。
その5つの要素とは、<品>、<値>、<地>、<場>、<人>である。
昨今はインターネットでの飲食店紹介などが発達し、<品>や<値>ばかりが注目されているが、本当に重要なのは<地><場><人>である、という。

<地>はその店がある街、<場>はその店という場所、<人>は店の人も客も含めたそのときその店にいる人たちのことである。

著者は、このような持論に基づき、味や価格ではなく、<地><場><人>の要素に力点を置いて居酒屋論を展開する。

尋常ではない酒場放浪者

そうして、話題は、酒場の種類や特徴の解説へと移っていくのだが、その中で著者は、具体例として、全国各地の酒場を大量に紹介する。北海道から沖縄まで日本全国のたくさんの酒場にポンポンと言及していく。本当に日本全国の酒場に行きまくっていることが分かる。ここらへんの記載から分かるのは、この人が行った酒場の数は尋常ではないということだ。

「焼き鳥」についての考察の中で、岩見沢の「やきとり 三船」という店の話が出てくる。この店は札幌にも支店があるらしいが、著者が行ったのは岩見沢の本店で、そこでのエピソードがちょっと面白い。

私が「三船」を訪れたとき、何よりも印象に残ったのは、そのときふと耳に入った短い会話である。カウンターの内側にいた女性従業員が、私の隣に座っていた常連らしい六十代の男性客に「きょう、バイクで来ている?」と訊いた。彼は「違う」という。彼女は、カウンター席に並んでいる客全員に向かって、大声で同じことを訊いたが、誰もバイクで来ていないという。私は当然、飲酒運転を注意するものとばかり思っていたら、彼女は諦めたようにこうつぶやいた。「カラスが誰かのバイクを突っついているから……。」

話があまりにも奇異だったので、私はすぐに把握できなかったーーつまり、われわれが店内で焼き鳥をかじっているときに、店の前で、「鳥」が客のバイクを食べようとしているわけだ。(78頁)

話自体も面白いけれども、岩見沢まで行って焼き鳥を食べて、こういう話に注目できて、面白がれる。すごいと思う。あなたは岩見沢の焼き鳥屋に行ったあとこんな文章を書けますか。自分には無理である。

また、国立駅高架下の「うなちゃん」についての説明も、こんな感じである。

国立と言えば、人間が半そでで歩き回っているのに、犬にかわいいコートを着せて散歩させるマダムがごろごろ歩いている街である。ところが、「うなちゃん」の小さなボロい木造の店舗に一歩でも足を踏み入れると、そういった目障りな光景が一気に吹き飛んでしまう。(82頁)

国立でマダムが犬を散歩させている光景を「目障りな光景」と切って捨てる姿勢からも、著者が本物のやばいヤツだということがよく分かる。

なお、著者が東京で知り合った「オソロシイ呑み友」として、やなちゃんという人物に言及されている。「やなちゃんの大阪一人酒の日々」というウェブサイトが紹介されていたので見てみると、これもまた尋常ではない。類は友を呼ぶのだろう。

京都の暗くて狭くて美味い店

話題は、「アカデミックな」話題から、<地><場><人>の話に進む。当初予告されていたとおり、徐々に酔っ払いの文章になっていく。

<地>に関して、著者は、その店がある街と店との関係性も大事だという。街と店との関係性には、「この街ならではの店だ」という順当な関係性もあるが、そればかりでなく、「この街にこんな店が?」という意外性が面白い場合もあるという。

意外性の例として紹介されている京都の「ざんぐり」という店の話は共感できて面白い。この店は、四富会館という薄暗くひっそりした長屋の中にあり、詰めても5人しか座れず、膝もカウンターにぶつかるし背中も後ろの戸にぶつかるという超極小の店で、しかも狭い厨房には威圧感のある大柄な店主が立っていたという。著者は、酒と980円くらいのつまみを注文した。

ようやく現れたのは、料亭か高級割烹のごとく、漆の盆に盛られた、色も形もきめ細かく美しい料理だった。ひと口食べたら、さらに驚愕したーーこんな古びた「四富会館」で、こんな小さくてファンキーな「焼き魚バー」で、あの大きな体の店主が、これほどの繊細な味の料理を出すとは!(136頁)

感動の情景が目に浮かぶ。こんな体験をしたい。これは、料理のおいしさもさることながら、京都でこんな店?こんな店でこんな味?という意外性の連続が感動に繋がったに違いない。

福岡の屋台からの情景

本書もここらへんまでくると、酔いも深まってくる。
<地>が重要であることの例として紹介されている、福岡天神の屋台「宗」での情景表現がとても良い。

私が入ったのは夜の十一時過ぎ、腰を下ろすと、わずか二、三メートルのところにある車道を車がびゅんびゅん飛ばしていく。背後からは歩行者たちの会話や、油に飢えているかのような自転車のギアのカチャカチャという音が聞こえてくる。見上げると満月が柔らかい光を夜空に放っている。しばらくその光景に引き込まれていたら、隣の客に出されたラーメンの匂いで我に返り、焼酎でふたたび喉を潤す。横に目をやると、ベンチの端っこに座っている客の数十センチばかり後ろに一本の木が立っていることに気づく。コンクリートのビルが林立しているなかで、その木が屋台専用の借景のように映るーー。(143頁)

完全に酔っ払いである。酔っ払い文学というやつであろうか。
しかしすごく良い。
酔っ払っている状態も含めて映像が目に浮かぶ。
これを文章化するとは、李白白居易漢詩に匹敵する偉業である。

自我忘却への誘導

また、<場>についても、酔っ払いならではの素晴らしい見解が示されている。自分がこの本で一番好きなところだ。

ずいぶん逆説的な言い方ではあるが、<客>としてのれんをくぐるとは言え、しばらく経つうちに<客>であることを忘れさせてくれる居酒屋こそ「いい店」だと私は考える。つまり、<顧客>よりも<一個人>、少なくとも<人間>という気持ちで過ごせる時間は、品書きにこそ記されていないが、居酒屋が提供するすべてのモノのなかで、もっとも貴重だと主張したい。さらに言えば、

<顧客>→<個人>→<自我忘却>

という過程に誘導してくれる居酒屋なら、まさに至福の時間を過ごしたことになると思う。
(182頁)

素面でこんなことを言っている人がいたら「・・・はぇ?」と答えるしかない。
酔っ払いだったら「そろそろ宴もたけなわですが」と締めに入るしかない。
<顧客>→<個人>→<自我忘却>」。もはや何を言っているのかさっぱり理解できない。理解はできないけれども分かる気がする。

言葉の意味はよく分からないが、とにかくこの人はとんでもなく居酒屋が好きなのだ。

本当に酒場を愛する著者による居酒屋論

ここで一部を見てみただけでも、著者のマイク・モラスキーが本当にやばいヤツで、本当に居酒屋が好き過ぎるのだということが分かってもらえたと思う。

この本は、本当に居酒屋が好き過ぎる著者が、自分流の酒場の楽しみ方を、酒場への愛情を込めて書いた本である。この本を読めば、居酒屋に行きたくなり、居酒屋を楽しみたくなるに違いない。