底知れぬ知的好奇心と蘭学の融合爆発 「江戸の理系力」

江戸時代の人たちは、黒船が来たときに「蒸気船が来た!」と言い、その2年後には蒸気船を作ってしまったそうだ。
本書は、そんな江戸自体の人たちの知識水準の高さや知的好奇心の強さに驚きながら楽しむことのできる、休日向けの本である。

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本書は、天文暦学、測量学、医学、数学の4分野について、江戸時代の「理系力」の高さを解説する。

【天文暦学】古代中国の暦からグレゴリオ暦を超える精度の暦へ

日本では、なんと、平安時代に唐から導入した「宣明暦」を、862年から1685年までの823年間も使い続けていたのだという。
それだけ宣明暦が優れていたということなのだが、これだけ長く使うとやはり誤差が生じ、夏至冬至がずれたりなどの不都合が生じたため、江戸時代に入って改暦が進められたのだそうだ。

1685年(貞享2年)1月1日、日本で初めて独自の暦が採用された。

こうして宣明暦が導入された貞観4年(862)以来、じつに823年使われた宣暦が廃され、日本初の独自の暦が採用されたのである。(35頁)

その70年後の1754年(宝暦4年)には「宝暦暦」に改暦されるが、これはあまり良いものではなかったらしい。

このころ、八代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、西洋の知識が流入し始める。

そのようななかで、西洋の天文学や数学を学んだ高橋至時間重富が、1795年(寛政7年)に幕府の天文方に任命され、新たな暦を完成させた。
そして、1798年(寛政10年)、高橋至時間重富が完成させた暦が「寛政暦」として施行された。

それは初めて西洋天文学の理論を取り入れた暦であり、日本の暦史上において、まさにエポックメイキングな出来事となった。(56頁)

さらにその後、高橋至時次男である渋川景佑は、フランスの天文学者ラランデの著書である「ラランデ暦書」を翻訳。
渋川景佑はラランデ暦書の理論を取り入れた暦を完成させた。
この暦が1844年(天保15年)に「天保暦」として施行された。

この天保暦の精度は驚くほど高いそうだ。

天保暦がはじいた太陽年は365.24223日。それに対してグレゴリオ暦のそれは365.2425日。これは当時の平均太陽年に対して、天保暦のほうが0.00027日だけ誤差が小さいのである。(57頁)

明治に入って、より精度の低いグレゴリオ暦に合わせた。行きすぎてしまったのだ。

【測量学】地球を測るついでに蝦夷地の地図をつくる

江戸で測量といえば伊能忠敬間宮林蔵だ。本書でも伊能忠敬間宮林蔵の功績が解説されている。伊能忠敬は、地球の大きさを測ろうと思った流れで蝦夷地の地図をつくったそうだ。

伊能忠敬は、息子に家督を譲った後、「寛政暦」を作った上述の高橋至時に弟子入りしたという。

伊能忠敬は、地球の大きさを知るため、2地点の距離と緯度差から子午線の長さを求めようと考えた。
これに対して、高橋至時は、「短い距離では誤差が大きすぎる、少なくとも江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測らなければ意味がない」と助言したという。
この助言を受けて、伊能忠敬は、「蝦夷地の地図をつくる」という口実で幕府から許可を得て、蝦夷地へ観測の旅に出た。

蝦夷地での測量の結果、伊能忠敬は、緯度1度の距離は28.2里であると算出した。
1里は3.927kmなので、28.2里は約111km。111km×360度=約4万km。

ちなみにこの数値、誤差は0.3パーセントという驚異的に正確なものである。(81頁)

のちに、この数値が上述の「ラランデ暦書」の数値と一致することを知り、師弟らが大いに喜んだそうだ。

この「地球の周囲を測る」という話がなければ、伊能忠敬蝦夷地には行かず、伊能忠敬の驚くほど正確な北海道や樺太の地図が作成されることもなかったかも知れない。

【医学】解剖し、翻訳し、麻酔を作り、手術をする

人体解剖して肺に息を吹き込んでみる

江戸時代前期までは、日本固有の医学である和法、朝鮮半島から伝来した韓医学、中国から来た中医学の三医学を合わせた「漢方医学」が主流であった。しかしながら、伝統的な中国医学では、臓器の正確な位置などといった人体の内部構造は秘伝扱いされていたという。

そのような中で、1754年、伝統的な中国医学に疑問を持った山脇東洋という医師が、日本で初めての人体解剖を行う。このときの観察記録が面白い。

このときの観察記録が『蔵志』であり、門人・浅沼佐盈の書いた挿絵の横に、東洋が「気道は食道の前にある」「肋骨は左右とも9本ずつ」「両肺とも内側には小さい孔が無数にある」などの説明を記している。肺に関する記述では、「管を以て気道を吹けば則ち両肺は皆怒張し」とあるから、肺の機能に関する実験を行っていることがわかる。(116頁)

管に息を吹き込んでみたら肺が膨らんだと。
まさに理系的な観察者の態度である。

「草場の陰」さんの功績

山脇東洋の「蔵志」が刊行されて以降、解剖が次々に行われるようになる。
杉田玄白も、これに続いた一人である。杉田玄白は、解剖に立ち会った結果、ターヘル・アナトミアの記載内容が正確であることに驚き、これを翻訳することを決意する。しかし、翻訳作業はなかなか進まない。

生来の虚弱体質であった玄白は悲観的になり、「終わりまでは生きられそうにない。翻訳完成は草場の陰で見るだろう」と漏らしている。おかげで玄白は桂川甫周から「草場の陰」という縁起の悪いあだ名をつけられる始末だ。それでもどうにか1年半で作業は完了した。(122頁)

こうした「草場の陰」さんらの努力の結果、解体新書が刊行されたのだ。

世界初の全身麻酔手術

華岡青洲による世界初の全身麻酔手術の話は、やはりすごい。

紀州華岡青洲乳がんの摘出手術に成功したのだ。しかも、全身麻酔を用いて……。アメリカの歯科医ウィリアム・モートン全身麻酔による手術に成功するのは42年後のこと。まさに世界初の快挙であった。(123頁)

全身麻酔をするにはそのための麻酔薬が必要なのだが、華岡青洲は、様々な漢方薬を参照しながら、独自にこれを開発する。開発に至るまでには大きな犠牲もあったようだ。

このいっぽうで青洲は独自の研究も重ね、20年以上も実験に明け暮れて、ついに世界初の全身麻酔薬となる通仙散(麻沸湯とも)の開発に成功する。人体実験の過程で母親を死なせ、妻を失明させた末の成果であった。(125頁)

そして、当然のことながら、手術も命がけだ。

この麻酔薬を用いた手術がおこなわれたのは、文化元年(1804)10月13日である。患者は藍屋利兵衛の母親で、名は勘。手術をためらう青洲を「死んでも本望」と激励して手術を受けたという。(125頁)

母を死なせ、妻を失明させ、患者には「死んでも本望」と手術を激励される。青洲はとても信頼のある医師だったに違いない。

これ以降も、青洲は、次々と手術を成功させたという。

手術成功の報はたちまち全国に広がり、青洲のもとには患者が押し寄せた。青洲は乳がんばかりでなく、膀胱結石、舌がん、重症の痔、兎唇(口唇裂)、多指症などの手術も、麻酔薬を使って次々と成功させた。(125頁)

これを読んで画像検索してみたら、手術をする青洲の姿もまた味わい深い。

【数学】娯楽と奉納

本書では、「算聖」と呼ばれた関孝和の話や、世界初の先物市場の話などが紹介され、
江戸時代の数学のレベルの高さが解説されている。

著者によると、江戸時代の数学には、2つの特徴があるという。

ひとつは、ある一人の研究者が和算の問題を出すと、ほかの人が解答を編み出し、さらに新しい問題を提出する。するとまたほかの人が研鑽を積んで解答を見つける……という、クイズのように問題と解答をリレーしてゆく「遺題継承」の習慣である。(138頁)

つまり、数学は学問ではなく、「娯楽」だったのだ。
今も、大人になってから学生時代の数学をやり直す本がたくさん売られている。
必要もないのに、ただ楽しむために、数学の本を買って、問題を解く。
義務としてではなく娯楽としてであれば、みんな数学が好きなのかも知れない。

もうひとつの特徴は、数学の新しい問題を編み出すと、これを、絵馬を巨大にしたような「算額」と呼ばれる学位、美麗な図入りで書き出し、神社に奉納する「算額奉納」という独自の習慣である。(138頁)

これを読んで「算額」というものを知り、また画像検索してみたら、古めかしい絵馬に複雑な図形問題などが描かれていた。
オーパーツのような意外さだが、これが本当の江戸時代なのだ。江戸時代の人々は、複雑でハイレベルな数学の図形問題を楽しんで解き、良い問題ができると絵馬に描いて神社に奉納する人々だったのだ。

しかし「算額」は良い。素敵な「算額」のレプリカがあれば自宅に飾りたいほどだ。

知的好奇心と知識吸収

このように、本書は、江戸時代の科学技術や知識のレベルの高さについて、楽しみながら再認識できる本である。
人々の知的好奇心の強さに驚くとともに、八代将軍徳川吉宗による禁書解禁の功績がいかに大きかったかを改めて認識させられる。
休日にゆるく読むのにオススメである。